
【結論】私は“親不孝”を選んだ
今回はちょっと重い話で恐縮ですが・・・
親の介護。
今も多くの人が、「最後まで家で看取ることが親孝行」
そう信じています。
でも私は――その価値観を裏切りました。
私は、親不孝を選びました。
母を施設に入れました。母は泣きながら言いました。「ここで死なせて」と。
それでも私は――首を縦に振りませんでした。
これは、誰かへのアドバイスではありません。
ただの記録です。私と妻が経験した、介護の現実です。
1.【夫婦介護の限界】
始まりは、私が30代半ばの頃でした。
同居していた父に若年性アルツハイマーが見つかり、
その後、脳梗塞で半身不随になり、言葉も失いました。
そこから10年間、母は父を自宅で懸命に介護し続けました。
私は、母が静かに壊れていく姿をずっと見ていました。
24時間、逃げ場のない介護。
30分おきの呼び出し。眠れない夜。
母の表情は日に日に険しくなり、
体も小さくなっていきました。
そして私は――
最低なことを思ってしまっていました。
「この状況を終わらせられるのは…
もうオヤジしかいない。どうか、オフクロを楽にしてやってくれ」と。
子供が親に願うことではありません。
でも…同じ立場にならなければ、
きっと分からない感情だと思います。
今でも、言葉にするのが怖い。それが、私の本音です。
2.【ケアマネは介護の羅針盤】
父が69歳で亡くなったとき、
私も母も、どこかホッとしたのが事実です。
でも――
10年の介護は、母の心と体を確実に蝕んでいました。
数年後。
今度は母がパーキンソン病になりました。
気丈だった母は、別人のように変わっていきました。
そして今度は、私たち夫婦の介護が始まりました。
そもそも介護についての知識などなかった私たちにとって、
ケアマネジャーさんは、まさに水先案内人でした。
初めての介護は分からないことやトラブルだらけ。
その度に道を示してくれました。
要介護認定を受けて、使えるサービスは全部使いました。
……それでも、限界はやってきました。
介護は――サービスが終わった後の夜中も、
明け方も、終わらないからです。
母は声が出しづらくなり、
何かあるとベッドの端を叩いて妻を呼ぶようになりました。
ドンドン……と。
夜中も、明け方も、その音が家の中に響きました。
やがて妻は――その音に怯えるようになりました。
音が鳴る前から、布団の中で震えるようになりました。
「また…聞こえる気がする…」
妻はそう呟いていました。
そんな時、情けないことですが私は…母に怒号を飛ばすこともありました。
母が壊れたように、今度は妻が壊れていく。
家の中は、まさに地獄でした。
そして確信しました。
このままでは――母より先に、妻が壊れる。自分も、正気を失う。
誰か一人でも倒れたら、この家は終わる。
3.【私は『親不孝』を選んだ】
私は、母を特別養護老人ホームに入れる決断をしました。
一番辛かったのは、母の説得でした。
母は涙を浮かべ、両手を合わせて言いました。
「お願いや……ここで死なせて」
私は言いました。
「もう無理なんや。このままやと…みんな壊れてしまう」
母は――何も言いませんでした。
母の懇願を振り切って、施設に入居させる。
その時、私はとてつもない親不孝者だと思いました。
でも――私は家族の命を守るために。
私は、『親不孝』を選びました。
【最後:暗闇の中にいるあなたへ】
母は施設に入って1年後、施設で亡くなりました。
私が63歳の時です。
もしあの時、在宅介護を続けていたら――今の私たちの笑顔も、
このブログでの発信も、存在しなかったと思います。
ただ、こう感じる方もいるでしょう。
「施設なんて無理だ」「選べる状況じゃない」と。
その通りだと思います。
出口のない暗闇で、一人で親を背負い続けている方が
日本中にたくさんいます。
だから私は、「頑張れ」とは言えません。
あなたはもう、十分すぎるほど戦っています。
もし距離を置けないなら――
せめて、心の中の距離だけでも取ってください。
優しくできない日があってもいい。
怒鳴ってしまう日があってもいい。
それは冷たいからじゃない。
余裕を奪われているだけです。
介護に正解はありません。
ただ――あなたの人生も、同じくらい大切です。
ここは、弱音を吐いていい場所です。
私は親不孝者かもしれません。
でも――生き残った家族です。